主日礼拝
            2020年4月26日 

黙 祷             
讃 美
詩編交唱 詩編130編
祈 祷   
聖 書  ヨハネによる福音書21章1~14節      
宣 教  『こんな時だからこそ感謝を』
讃 美
献 金   
主の祈り
黙 祷


*讃美はそれぞれのお好きな讃美歌で結構です。
*献金は日曜日ごとに分けて袋に入れ、日時、金額と項目(礼拝、月約、感謝、建築等)、氏名を記入し、次に教会に来られる時にお持ちください。

お知らせ
*これから、礼拝が再開されるまでの期間、簡易的な週報と、メッセージ、聖書教育のコピー等をお届けします。可能ならば、いつもの10時30分から、礼拝を捧げましょう。

*両膝の手術を受けられた坂本歌子姉妹は順調に回復されています。引き続きお祈りください。

*胃がんの手術を受けられた出立姉のご主人も順調に回復されておられますが、退院の日程は今のところ未定だそうです。引き続きお祈りください。

*現在コロナウィルスに感染されている方々、また、治療に当たられている医療従事者の方々のために祈りましよう。そして、そのご家族のためにも。そして、この状況で、経済的な苦境に立たされている人々のために。また、どこにももって行きようのない不安と怒りを覚えてもがいている方々のために。そして政治をつかさどる方々のために。

*本来であれば、本日午後から教会総会の予定でしたが、延期をいたします。日程は協議の上ご連絡いたします。



メッセージ(テキスト)


20章30~31節を見ると、本来ヨハネ福音書はここで終わっていたことがわかります。それはすなわち21章は後代に付け加えられたものだということを示しています。いわばオマケのようなものです。しかし、付け加えられたのには大切な訳があるのです。よく、復活のイエスに遭ったのだから、弟子たちは一気に自信を取り戻して『十字架に架かられたあのイエスこそ神の子であり、救い主である』と直ぐに宣教し始めたと思いがちです。しかし、皆さんも自分自身の経験を振り返って見られればわかると思いますが、それが辛く苦しい経験であればあるほど、立ち直るのは容易ではありません。弟子たちが復活のイエスに出会って一瞬で変えられたなどと思うのは、信仰をもったらすぐ人格が変わると考えるようなものです。しかし実際は、弟子たちは、何度もイエスと出会い直すのです。それは私たちが日曜ごとに礼拝でイエスと出会い直しながら、人生を歩んでいくのと同じです。私たちが神を愛するというのは、生きている限り神と何度も出会い直すとていうことを意味しているのです。

復活のイエスとの再会を経験してから、なぜか弟子たちは自分たちのホームグラウンドであったガリラヤ地方に帰っておりました。イエスさまはそこを弟子たちの再教育の場とされたのです。ある日彼らは漁に出ました。食べ物を確保する必要があったのでしょう。しかしその日、勇んで漁に出てものの、手ぶらで岸まで戻ってきたのです。「まったく、イエスさまが亡くなられてから、運にも見放されてしまったみたいだ。いったい俺たちこれからどうすりゃいいんだ。」彼らの心のつぶやきが聞こえてくる気がいたします。そんな彼らをイエスさまは暖かい火と料理で迎えてくださいました。でもこれも普通はありえないことです。イエスさまは彼らの師匠です。師が弟子のために料理を作るなどこの時代では絶対ありえないことです。でも何か前にも同じようなことがあったような…と。そうです、十字架にかかられる前の晩に足を洗われた場面を思い出してください。これも先生と呼ばれる人が弟子に対してすることはありえないことでした。

でもイエスさまはそのような慣習に縛られてはおられませんでした。イエスさまは弟子たちを教える前に、彼らの腹を満たされます。それは信仰とはただ心の問題というのではないということを示しています。彼らの身も心も温めて、すなわち彼らが聞くことができる心の状態をまず作られたのです。私ならイエスを見た時の弟子たちの反応に、「これで三度目なんだぞ、いい加減覚えろよ」と怒っていたかもしれません。しかし、イエスさまは彼らの苦労を慮り、ちゃんと漁を成り立たせ、彼らに食材を確保させ、目的を遂げさせて下さいました。私もじっとしている事が苦手で、不安になると焦って一方的な思い込みの中、何かをやるんですが、そんなことをしても結果は押して知るべしで、うまくいくことなんてほとんどありません。でも、イエスさまはそんな私たちの弱さも、愚かさも全部知ったうえで、それを責めるのでなく「あなたたちの不安も恐れも全部わかっているよ。だいじょうぶだよ。」と助けの手を差し伸べてくださるのです。

皆さん、この話を苦難のただ中にあった教会の人々がどのような思いで聞いたかなと想像してみてください。人目を忍んで、ある時は墓の中で、このイエスと弟子たちの出会いに耳を傾けた人々は、神さまの前では恐れや不安を押し隠す必要はないこと、むしろそのような私たちの弱さを慈しみ、ご自身の愛で包もうとされる神さまの配慮に、固まってしまっていたからだはほぐされ、その温もりに心震えたのではないでしょうか。
今私たちも先の見えない不安の中に置かれて、自分でも知らないうちに体だけでなく心も固くなっているかもしれません。イエスさまならこんな時どうなさるでしょうか。この話の続きを見ると、ぺテロは、イエスさまに対して「私はあなたを愛しています。」と三度告白します。何度も主を失望させた自分の弱さを彼は持て余していたことでしよう。それはまたいつ失敗するか分からないという恐れを彼に強く抱かせたことだと思います。そんなペテロに主は、ご自身への愛を三度も求められたのでした。彼は失敗する可能性に怯えるより、それに正面から応えることで、キリストのよみがえりの命を生き始めたのです。「私も主を愛したいと思っている」皆さんも同じ思いだと思います。しかし、どうしたら主を愛することができるでしょう。弟子たちはイエスさまが苦しまれているときに何もして差し上げることはできませんでした。鞭うたれたのも、唾を吐きかけられたのも、釘打たれたのも、嘲笑されたうえ十字架上ではりつけにされたのもイエスさまです。そして私たちを赦し、私たちによみがえりの命を与え、死から解き放ち、命の輝きへと引き上げたのはイエスであり、私たちではありません。私たちがこのイエスへさし上げる事ができるのは、感謝だけです。救い主への愛を感謝(ユーカリスト、主の晩餐を指す言葉でもある)という名の礼拝で力いっぱい歌うことだけです。私たちがそこから遠ざかるほどに、私たちは自分の中での空回りに時間を費やしてしまうのです。だからこんな時こそ、感謝です。主に感謝です。


主日礼拝
            2020年4月19日 

黙 祷             
讃 美
詩編交唱 詩編1編
祈 祷   
聖 書  ヨハネによる福音書20章19~29節      
宣 教  『見ないで信じるとは』
讃 美
献 金   
主の祈り
黙 祷


*讃美はそれぞれのお好きな讃美歌で結構です。
*献金は日曜日ごとに分けて袋に入れ、日時、金額と項目(礼拝、月約、感謝、建築等)、氏名を記入し、次に教会に来られる時にお持ちください。

お知らせ
*これから、礼拝が再開されるまでの期間、簡易的な週報と、メッセージ、聖書教育のコピー等をお届けします。可能ならば、いつもの10時30分から、礼拝を捧げましょう。

*10日(金)に両膝の手術を受けられ坂本歌子姉妹は順調に回復されています。引き続きお祈りください。

*13日(月)出立久美子姉のご主人が胃がんの手術を受けられました。順調にいけば二週間で退院されるそうです。お祈りください。

*現在コロナウィルスに感染されている方々、また、治療に当たられている医療従事者の方々のために祈りましよう。そして、そのご家族のためにも。そして、この状況で、経済的な苦境に立たされている人々のために。また、どこにももって行きようのない不安と怒りを覚えてもがいている方々のために。そして政治をつかさどる方々のために。

*お誕生日22日佐川明彦兄
*召天日 22日故神野勝美兄


*何かあれば、いつでも牧師の携帯(090-8289-4940)
 までお電話ください。



メッセージ(テキスト)


たまたまそこにいなかった、あるいは時間に間に合わなかったために災難を免れた、はたまたそのことで大きな損をしたということを実際に体験したり、誰かから似たような体験談をお聞きになったことがあるかと思います。私はトマスがイースターの日に他の弟子たちと一緒にいなくてよかったなぁと思います。なぜなら、「手の釘跡を確認し、そこに指を差し入れ、また手をわき腹にあててみなくては決して信じない」という素晴らしい言葉を残してくれたからです。このトマスの態度を不信仰という人もいますが、疑うことのない信仰はただの妄信です。世の中に妄信ほど恐ろしいものはありません。聖書は疑うことを決してダメなことだとは言っていないのです。

かく言う私も同じようなことをかつてまわりにも言い、また自分自身にも言っていました。「見えないものなんて信じられるか。見えないものを信じるなんて馬鹿だ」と。私はトマスがイエスが甦られた後の一週間をどんな思いで過ごしたかを思うとぞくぞくします。他の弟子が何か言えば言うほどへそを曲げ頑なになったかもしれません。10人対1人の気まずい関係・・・。そもそもトマスはなぜ他の弟子たちと一緒にいなかったのでしょう。師があんなことになったんです。弟子たちは一様に自分たちの身に火の粉が降りかかるのを恐れていました。だから一緒にかたまって家の中に閉じ籠っていたのです。いかにトマスが強情で、見栄っ張りであったとしても、敢えて一人でいることを選んだとは思えません。たまたま仕方なく用事で出ていたのでしょう。

 

だからなおさら、なんで俺だけという思いが強かったのだと思います。間が悪いにもほどがある。しかし、冒頭でも申しましたように人生では不可解なことが往々にしてあるのです。ですからそのことに憤っても仕方ありません。大事なことは、運悪く貧乏くじを引いてしまったトマスただ一人のためにイエスさまはもう一度顕現し、前回と全く同じことを繰り返してくださったという事実です。「自分はなんて運が悪いんだ」、「日ごろの行いが悪いから罰が当たったのか」、「神さまも私をのけ者にされているのか」等々私たちは不運に見舞われると思ってしまいがちです。しかし、トマスはそのままで他の弟子たちとまるっきり同じだったのです。そして私たちもそうなのです。人生は本当に私たちの思うようになりませんが、そこを生きる私たち一人一人のために主がねんごろに顕現してくださるのです。

だとすれば自分の人生に不条理を感じているとしても、否定的にならず、どのような運命におかれた自分をも受け止め、「大丈夫、神は私のことを忘れてはおられない」、「私だけのための計画とスケジュールをもって私に関わってくださる」そう信じていいのです。

私は見ないで信じるということは、この不可解な人生を肯定することだと思います。そのためには疑い深い自分を好きになるのです。疑ってしまう自分を人にも自分自身にも隠さず、神はこの巡りの悪さの中にご自身を表し、それさえ用いてご自身の業を為していかれると感謝するのです。信じるということは何か高度に精神的な営みなどではなく、不可解さのただ中でこそ神は私と出会われる、どんな不条理も神がご自身を私に顕わしてくださる恵みの時としてわきまえて生きるものなのだと思います。

私たちはイースターを迎えると十字架の苦しみなどなかったかのようにさっさと先に行ってしまいがちです。イエスさまの苦しみは他の10人の弟子たちのためでもありましたが、運の悪いトマスのためでもあったのです。だから復活もトマスにだけやってこないなんてことはありえません。ですから不平不満を誰かにぶつけたくなったとしても、今この状況も神の御業と肯定し、それぞれの平々凡々たる日常を感謝し、共に生かされている家族や友人を感謝し、後ろから一人一人の名前を読んでくださるイエスさまの声に聞き従っていきましょう。


イースター礼拝
            2020年4月12日 

黙 祷             
讃 美
詩編交唱 詩編23編
祈 祷   
聖 書  ヨハネによる福音書20章1~18節      
宣 教  『未来はわが背後にあり』
讃 美
献 金   
終 祷  コリントの信徒への手紙二13章13節
黙 祷


*讃美はそれぞれのお好きな讃美歌で結構です。
*献金は日曜日ごとに分けて袋に入れ、日時、金額と項目(礼拝、月約、感謝、建築等)、氏名を記入し、次に教会に来られる時にお持ちください。

お知らせ


*これから、礼拝が再開されるまでの期間、簡易的な週報と、メッセージ、聖書教育のコピー等をお届けします。可能ならば、いつもの10時30分から、礼拝を捧げましょう。

*10日(金)に坂本歌子姉妹が、両膝の手術を受けられました。一月ほど入院されます。お祈りください。

*現在コロナウィルスに感染されている方々、また、治療に当たられている医療従事者の方々のために祈りましよう。そして、そのご家族のためにも。そして、この状況で、経済的な苦境に立たされている人々のために。また、どこにももって行きようのない不安と怒りを覚えてもがいている方々のために。そして政治をつかさどる方々のために。

*何かあれば、いつでも牧師の携帯(090-8289-4940)までお電話ください。



メッセージ(テキスト)


誰にとっても初めて経験する深刻な事態を前にして、私たちには主のもとに集い、その方のいのちそのものであるみ言葉に耳を澄ますことができることを感謝しましよう。
今日は、私たちと同様に深刻な危機に直面した一人の女性に目を止めたいと思います。彼女は、死んでしまった一人の男性に会いに行きました。正確にはその遺体の収められた墓ににですが…。安息日の開けるのを彼女はどんな思いで待ち望んだでしょう。まだ夜も明けぬうちに出発したという記述の内に彼女のイエスへの思いの強さが溢れています。お墓の前で1人で思いっきり泣きたかったのかもしれません。しかし、墓で彼女が目にした光景は、彼女の悲しみをさらに強めるものでした。なんと大切な師の遺体が盗まれてしまったのです。正確には盗まれてしまったと思い込んだのですが…。彼女は弟子たちの所に走りました。女性である彼女には誰かの助けを乞うより仕方なかったからです。彼女から墓の様子を聞かされたペテロと主の愛された弟子は、墓へと走りました。彼らも何が起こったか分からずパニックだったと思いますが、彼らは遺体のないことを確認はしましたが、そこにとどまろうとせず、マグダラのマリアを一人そこに残して戻っていってしまったのです。一人残され、最後の願いまで打ち砕かれ、彼女は茫然として座り込んでいました。憔悴しきった彼女の姿が目に浮かびます。「自分には愛する者の死を悼み悲しむことさえ許されないのか」彼女は自分の人生を呪い、「あんまりです、神よ!」と心の中で叫んだかもしれません。天使の存在でさえ、彼女には自分には何のかかわりもないものとしてしか受け取れませんでした。
その時ふと何者かの気配を感じ、後ろを振り返り、誰かがいることを確認しました。しかし彼女にできたことは、「遺体を返してください」と力なく懇願し、再び背を向けることだけでした。その直後、彼女は自分の背後から自分を呼ぶ懐かしい声、もう一度聞きたいと心から願っていた声を聴いたのです。

 

いま世界中が毎日気の滅入る出来事を目にし、不安や、疑いゃ、恐れ、怒りが渦巻いているのをひりひりと感じない人はいないでしよう。そんな中にも、「前を向こう」、「前向きに生きよう」という声も確かに響いています。困難に遭ってしょげているだけでは確かにダメで、困難をチャンスにするくらいの積極性も確かに必要かもしれません。しかし、イエスはマリアに対して、前に立って、「なんで泣いてるんだ、泣いてなんかいたらだめだ。立て、前を向け。」とは言われなかったのです。なぜでしょう。それは私たちは後ろを振り向きつつ生きる必要があるからではないでしょうか。マリアは彼女なり仕方でイエスを探し求めました。墓にも行きました。弟子の力も借りました。天使とも話をしました。彼女なりに前を向いて努力したのです。しかし・・・、しかし、イエスさまは彼女の前にではなく、後ろにいらっしゃったのです。そのことに彼女は全く気づかなかった。それは自分の思いや努力を信仰だと勘違いしている私たちの姿そのものです。背後からの声に振り向くことで、彼女は本来の自分を取り戻したのです。神によって造られ、生かされている自分に。今、こんな状況だからとにかく頑張らなければ・・・、残念ですが私はそこにも罪の匂いを感じます。それが悪いわけではなく、静まって後ろを振り向く謙虚さが何より必要だと強く思うからです。
星野富弘さんの詩にこのようなものがあります。

 

 花がきれいですねぇ
 誰かがそういって
 うしろを過ぎていった
 気が付くと目の前に
 花が咲いていた
 私は何を見ていたのだろう
 この華やかな
 春の前で
 いったい何を
 考えていたのだろう

主の前に、悔い改めと感謝の祈りを捧げましょう。