主日礼拝 式次第
                 2021年2月28日 
               
黙 祷             
讃 美   恵みの高き峰 556
詩編交唱   詩108編
献 金  
主の祈り   (裏面)
報 告
聖 書   マタイによる福音書21章1節~11節
(新39)      
宣 教 『み言葉の通りに』   坂田 浩牧師
讃 美   罪ゆるされしこの身をば 300
黙 奏

お知らせ
*2月17日(水)より、レント(四旬節)に入っております。2021年は3月28日(日)より受難週に入り、4月4日(日)がイースター(復活祭)です。
*国の緊急事態宣言の解除が迫ってまいりましたが、この時だからこそ主に心を向けて、み言葉に聞きつつ祈り心をもって歩みましょう。
*2月13日、マグニチュード7.1の地震が発生した福島および東北、北関東および関東の諸教会を覚えて祈りましょう。間もなく東日本大震災から10年を迎えます。復興に取り組んでおられる方々、特に原発で働いている方々を覚えて引き続きお祈りください。

お誕生日、おめでとうございます。
3月
倉橋 裕子姉 15日
宮崎 嘉信兄 17日
松原かおり姉 20日

*聖書豆知識・・・レント(四旬節)とはイースター前の46日間(6回の日曜日を除くと40日)を言います。始まりの水曜日を灰の水曜日と言います。受難週の入り口の日曜日は棕櫚の主日と言い、伝統的に福音書のいずれにも記されているエルサレム入場の記事が読まれてきました。



メッセージ(動画)



メッセージ(テキスト)


 今日の宣教題にさせていただいたイエスさまからの問いに、ペテロは『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えました。教会はこの信仰の告白の上に建てられてきたのです。最初の三世紀の間、この告白をすることは命がけでした。キリスト教は紀元313年にローマから公認されるまで、宗教として認められなかったのです。大っぴらに礼拝することはおろか、ローマ皇帝を神と認めないのでたびたび厳しい迫害の対象ともなりました。まさしく「わたしのために命を失う」(25節)ことを覚悟しなければ、この告白を為すことはきなかったのです。
 このペテロの告白のゆえに、このマタイ16章は、マタイ福音書全編を通して峠の頂上に位置していると考えられます。つまり、ここが一つの頂点なのです。なぜそう言えるかというと、ペテロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という告白は、人間が初めてイエスをメシア=キリスト(救世主)と認めた場面だからです。人類初のキリストに対する信仰を言い表した言葉なのです。
 しかし、この立派な信仰告白をした記事のすぐ後に、そのペテロが大失敗をし、イエスから厳しく戒められるという出来事が語られます。なんだか先週学んだバプテスマのヨハネと重なって見えます。『あなたはメシア、生ける神の子です』。それはイエスと出会い、何もかも捨ててイエスに従い、その言葉に耳を傾け、そのみわざに触れ、さまざまな出会いを重ねてきたペテロの偽らざる思いでした。この時彼はこれからも同じような感動の日々か続くと思っていたでしょう。いや、それ以上の素晴らしい出来事が自分たちを待っていると強く期待していただろうと思います。しかし、これまでイエスが何事かをなさる度に、必ず律法学者やファリサイ人といった人々の激しい反発、敵意、嫉妬を買っていることを彼が気づいていなかったはずはないのです。けれども、彼をはじめ弟子たちの誰もがそれを真剣にはとらえていませんでした。まさに人間は見たいものしか見ようとせず、それ以外のものは無視するということが彼にも当てはまっていると言えます。だからイエスがそのすぐ後に『御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている』(16:21)と語られた時、「そんなことはあってはなりません」(22節)と叫ばざるを得なかったのです。
それは彼がイエスのことを大好きで、それゆえに彼のことを心から心配したからです。一方でペテロの中の隠された欲求、ペテロがイエスと一体となってイスラエルの頂点に立つ自分、それが崩れ去ることをどんなことがあっても拒否したい気持ちだったからでしょう。『サタン、引き下がれ』とのイエスの言葉は「あなたに私をメシアと言わせたのは父なる神なのだ。その私の父、あなた方の父が、今私を死へと送ろうとしている。あなたに、この告白を呼び起こした父が、私をこの道(十字架)に定められたのだ。」という意味なのです。ですから、この言葉はペテロを辱めるためではなく、ペテロを正しく立たせるために、彼に授けられた天の国の鍵が、真実に正しく用いられる道はここしかないのだということを示すためにそうおっしゃったのだと私は思います。しかし、残念ながらこの時の彼にはこの言葉を額面通りに受け取ることしかできず、ただの叱責としか感じられなかったでしょう。彼はまさに天国から地獄に投げ込まれたような気持ちだったのではないでしょうか。ペテロにこの時のイエスの愛が理解できるのはまだまだ先のこと、そうイエスさまが復活された後のことです。
先週学びましたバプテスマのヨハネにしても、今日のこのペテロにしても、人間の弱さと愚かさを見事にしめしています。私はここに聖書の徹底的なリアリズムを見ます。使徒と言っても、弱く、愚かで、自分のことしか考えていないのだということがまるわかりです。でも、逆に使徒だからと言って理想化して、もっとかっこよく見せてはいないところが素晴らしいと思います。
さて、それはさておき、皆さんも気になっておられるであろう「天の国の鍵」について少し言及しておきたいと思います。もちろんそれは目に見えるものではありません。天の国の鍵とは「教会が、人々に罪の許しの言葉を語ることである」と、そのように理解することができます。そうはいっても、そんなのあってもあまり意味のないことのように思われるかもしれません。しかし、イエスがこのことを語られた背景には、出エジプト記19章6節のみ言葉があります。『あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。』イスラエルの民、それは神と人々の間にあって、神と人とをつなぐ祭司の役割を果たすのです。祭司の務めは、祭司の職業を持っている人だけが果たすものではないのです。祭司の務めとして大事なのは、神が生きておられるということを人々に示すことです。神と人との間の取次ぎをするということです。主イエスもここで、あなた方が、その祭司となる。と言われたのです。
なぜ私たちがそうなると言えるのでしょう。イエスをキリストと告白することは、その人か祭司となるということでもあるからです。宗教改革者マルチン・ルターは自身の説教の中でこのように述べています。「ある人にとって、キリストが何者かであるならば、その人にとって、他のすべては無であるが、ある人にとって、キリストが無であるならば、その人にとって、絶えずすべてのものが大いなるものである」と。これは直訳なので理解しにくいと思いますが、しかし大変簡潔に私たちキリスト者がどういう者であるかを語っているのです。
かみ砕いて言いますと「あなたにとって、イエス・キリストという方が、意味のある存在であるならば、他のいかなるものも何も意味がなくなる。無になってしまう。他の何物も恐れることなく、死も罪も恐れず、何からも自由になって生きることができる。その反対に、イエスがキリストであられるということを、そのことがあなたにとって、何の意味も持っていないのならば、これから後も常に罪の力、死の力に付きまとわれるだけなのだというのです。どうです、天の国の鍵とはすごいものでしょう。
 キリストが意味ある存在になるためには、私たちはイエスの語られることすべてに「YES」と言わねばなりません。それは十字架をどんな時も見つめることです。十字架上でイエスが苦しみを通して私たちに罪の許しを宣言されていることに常に立ち返るのです。でも私たちはイエスの十字架の前に立つより、全世界の前に立って世界が差し出すもの手に入れる方を選ぶのです。それで滅びるなんて思えないので、考えないで飛びついてしまうのです。本当にイエスを知らなければ、イエスの許しを受けなければ、全世界を手に入れて命を失うしかないのです。
 『あなたはわたしを何というか』。この問いをいつも目の前に置き、「あなたこそキリスト、私の罪をゆるしてくださる方、私のすべて」との告白を決して手放すことなく、一日一日を歩んでまいりましょう。


2月21日主日礼拝


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2月14日主日礼拝


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2月7日主日礼拝


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2021年2月7日 主日礼拝メッセージ

 

聖書:マタイによる福音書10章26節~31節

宣教:「神はもっと大きい」

 

 聖書に繰り返し出てくる言葉がいくつかありますが、「恐れるな」もその一つです。今日の箇所にも、3回も出てきます。何を恐れるなと言われているかというと、一つは人です。たとえその人が権力や腕力また知略に優れていて、他者を痛めつけることができるとしてもです。でも明らかに自分より強い者を前にして、ひざががくがく震えるようなところで、無理やり、やせ我慢せよと言われているのではありません。また、本当は怖いのだけれども、それをごまかすことでもないのです。私たちは自分の弱さを見せられることを何より怖れ、嫌悪していますから、「弱虫」とか「いくじなし」とか、「怖がり」とか言われると、ついかっとなって反論したくなります。そんなものは本当の強さではないことはわかっていますが、売り言葉に買い言葉でついやってしまう。私にも多分にそのようなところがあり、その度に反省させられます。ここでイエスさまは、そういう私たちの首に縄をつけて引っ張りながら「お前たち、強くなれ!負けるな!」とはっぱをかけておられるのでは決してないのです。ですから勘違いしないでいただきたいのは、これは弱い私たちへの叱責でも、まして教訓でもないのです。そうではなく、励ましの言葉です。私たちに勇気を与えようとして、主イエスが慰めてくださる言葉なのです。それをまずしっかりと心にとどめてください。そのように聞き取ることができることこそ、真の幸いと言えるのです。

 このイエスのみ言葉は、主が12人の弟子たちを派遣されるときに語られた言葉として記されています。16節でイエスは「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」とおっしゃっています。狼だと分かっていて遣わすというのです。私はそう聞かされた時、弟子たちはどんな気持ちになっただろうと思います。いかにイエスさまの持っておられる権能と同じものを与えられたとはいえ、私ならそう言われた瞬間から身構えてしまって、ガチガチになってしまうのではないかと思います。その時から回りがみんな狼に見えたかもしれません。そのような中に「恐れるな」というイエスさまの声が響くのです。でも、「狼の中へ」と言われたら、身構えない方がおかしいと思うのです。でも仮にそういわれなかったとしても、私たちは自分以外の人々を恐れているのではないでしょうか。なぜなら私たちは自分の内側をよく知っていますから、自分の弱さやどろどろとした感情を知られたら、それがばれたらどうしようと恐れているからです。本当に、心の内にある恐れを指摘されることくらい、私たちにとってつらく、また残念なことはありません。でも、自分の弱さを受け入れられないと大変な事態になることもよくあるのです。その一つが「助けて」と言えなくなることです。周りに助けを求めなければならない時に、それを言い出せないのは、弱さや恐れを否定的なものとして認識しているからです。ちょっと考えれば、弱さを持ってない人などこの地球上に誰一人としていないことは明白です。それと同じで、恐れない人だって一人もいないのです。

 ですから恐れを抱くこと、弱さに涙することは人間として当然のことなのです。イエスはそれを踏まえたうえで、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とおっしゃるのです。それでも、「自分にはちょっと無理っぽい」、そうささやく声が心の中にこだましているのを感じます。私たちは魂より体にこだわっています。魂はあるようで見えませんから仕方ない面もあると思います。体の一部がちょっとでも痛んだ瞬間、私たちは恐れます。私たちはガンかもしれないと思っただけで、死を選んでしまうこともあるそんな生き物なのです。

 一方でイエスは「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」とおっしゃいます。神は髪の毛一本に至るまで私たちのことを知っていてくださるのです。もし私たちに対する愛がなければ、そんなところまで気にとめるなんてことは起こりえません。私たちのからだも魂も、神のみ手の内にあるとおっしゃっているのです。ですから私たちに求められているのは、神を正しく恐れることです。神は体と共に魂を滅ぼすことがお出来になります。そうすると、「でも、イエスさまを信じ受け入れたものには永遠の命が与えられるのだから、滅びるなんてことは私たちには起こりえないのではないか」と言われるかもしれません。教会の歴史の中でもこのことに寄りかかって、「だから何をしてもいいんだ。今を思いきり楽しんで、死ぬのを待てばいいのだ」と他者に思いをはせることも、イエスさまのくださった使命を果たすこともなく、虚無主義に陥ってしまった人々が起こってきて、後の使徒パウロはこの虚無主義という火を消すのに多大な労力を使わなければならなかったのです。神を恐れるということは、私たちが滅びるということを真実に恐れることです。「神様がつくられたのだから、神さまが愛されているのだから、だから安心しなさい」とだけ聖書は語っているわけではないのです。

 そういうと「なんだか神様のことがわからなくなってきた。神さまって方は優しい方なのか、それともそうじゃないのか」とそういうつぶやきが聞こえてきそうです。今日是非繰り返し口ずさんで覚えていただきたいみ言葉は29節です。『二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。』滅ぼす力において、おそるべき神は、その恵みの深さにおいても、おそるべき方なのです。30年間キリスト者として生きてきて、最近やっと解りかけてきたことは、神は私の最大の心配より大きいということです。どんな病気にかかっても、神はそのあなたの病気より大きいのです。あなたの最も大きい落胆よりも、はるかに大きいのです。また、あなたの最大の敵より、はるかに大きくいらっしゃいます。神は、あなたの最も困難な課題より、あなたがしがみついている命より、もっと大きいことを信じましょう。もし、あなたの信じている神がもっと大きくなかったら、あなたの神は小さすぎます。それは聖書が語る神でも、イエスがお示しになった神でもありません。つまり偽物です。ある修道士がこのように書き残しています。「主は地上の私たちに悲しみを送ってくださいます。それはときどきひどく心を痛めます。しかし、その悲しみは私たちを地上から引き離します。あらゆる地上的なものへの過度のとらわれから私たちを引き離すといった方がよいでしょう。悲しみは神の贈り物でもあるということです。喜びに対するのと同じように、感謝の内にそれらの悲しみを受け止められませんか」と。

 悲しみ、苦しみ、試練はない方がいいと願いますが、しかし現実には誰の人生にも標準装備されています。それは私たちに恐ろしい悲しみと落ち込みをもたらしますが、しかし同時に、私たちがとらわれているものから私たちを引き離し、神の方へと私たちを誘ってくれるのです。そして私たちが想像することもできなかった世界を私たちに見させてくれるのです。ですから、神はもっと大きい。神はもっと大きい!それを信じましょう。神はもっと大きい、それによって今この時を生きてまいりましょう。神はもっと大きい、そのことを承諾し、神はもっと大きい、それを信じ、神はもっと大きい、このことを言い広め、疲れた魂を休めるための枕のように「神はもっと大きい」を使ってまいりましょう。