2019年  1月13日

宣教「自分を空にして」

ルカによる福音書4章16~30節


聖書箇所

 4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
4:22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
4:23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
4:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
4:25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、
4:26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
4:27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
4:28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
4:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
4:30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。


皆さんは聖書を読んで驚いたことがありますか?
イエスは宣教を始めたばかりなのにもう人から殺されそうになったというのです。それはイエスが説教をされた時でした。私も牧師になって30年経ちます。計算すると1500回ほど説教したことになります。おそらく聞かれた方の中には反感を持たれことも数多くあったことと思います。自分でも何であんなことを言ったのかと穴があったら入りたいと思ったこともあります。でも殺されそうになったことはありません。何がイエスを殺そうと思うまでに人々を追い詰めたのでしょうか。
イエス様はいつものように会堂に入り、イザヤ書61章を朗読されまた。
その1節からを見てみましょう。


「主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれた人には自由をつながれている人には解放を告知させるために主が恵みをお与えになる年わたしたちの神が報復される日を告知して嘆いている人々を慰めシオンのゆえに嘆いている人々に灰に代えて冠をかぶら嘆きに代えて喜びの香油を暗い心に代えて賛美の心をまとわせるために。 

 

 彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。」
イスラエルの人々はバビロン捕囚を終えて国に戻ってきました。しかし多くの国難が待ち受けていて、まだバビロンにいた方がよかったと多くの人が思えて後悔したのです。この預言はイザヤ書に書かれていますが、実際イザヤ本人は捕囚の時を経てイスラエルの人々が帰って来たときはもう存命していませんでしたので、イザヤの名を冠した他の預言者が語った預言とみられます。


灰をかぶるとは苦難を受けているということ、しかしいずれ冠をかぶらせられるというのです。「嘆きに代えて香油を」、それは、今は買うことはできないけれどそんな高価な香油をなみなみと浴びる日が来るというのです。今は右を見ても左を見ても暗いけど、必ず賛美が常に衣のように身近にある時をもたらしてくださるというのです。もちろん何かそうなるという確証があったわけではありませんが、イスラエルの人々はそう信じて日々を耐えたのでした。

イエスはナザレに来たときにこの話をされたのです。その前にイエスは荒野での試みを受けて帰ってこられてから、ガリラヤで伝道を開始され、久しぶりに生まれ故郷のナザレに来られたところでした。
ですからナザレの人々はイエスのことをよく知っていました。イエスの父、兄弟のことも。彼らは自分達の知っているイエスがガリラヤ地方ですごい評判を得ていることでイエスのことを誇りに感じていただろうと思います。


イエスはいつものように会堂に入って、聖書を朗読しようとしました。イザヤ書は巻物で置いてありました。
「解放と自由、主のめぐみ」が今あなたがたのところにきている」とおっしゃいました。それを聞いた時、一部の人々が「あいつももとは俺たち誰もが良く知っているあのヨセフのせがれじゃないか」と言ったのです。そこにはかつては自分たちと同じか少し下に見ていた者が、自分たちより上に立ったことへの嫉妬と羨望が入り混じっているように思えます。イエスさまはそんな彼らに、彼らが閉じこもっている殻を打ち破るような言葉を語られました。列王記の記事を引いて、預言者が遣わされたのは異邦人のやもめであり、癒されたのは異邦人の将軍だけだった・・・と。神はユダヤ人の神だと信じていた彼らにとって、それは耳をふさぎたくなることでした。実際耳をふさいだだけでなく、彼らはその耳障りな言葉を発する大元、すなわちイエスを殺そうとまでしたのです。イエスは彼らを背にして逃げていかれたわけではありませんでした。自分を殺そうといきり立っている故郷の良く知っている人々の間を抜けて去っていかれたのです。私はその一人一人に向けられたイエスのまなざしはどんなであったろうかと思います。「神の子であり、メシアである私を殺そうとするなんて」という驚きと怒りに満ちた目をしておられたのでしようか。


そうではないと思います。その目は昔からよく知っている人々とさえ通じ合えない悲しみと痛みに満ちていたのではないでしょうか。私は同じ説教者としてイエス様が体験なさったほどの反対と怒りをぶつけられたことはありません。でも、クリスチャンであるということはそのようなことも時に覚悟しなければならないというふうにも思えるのです。「試みに合わせないでください」との主の祈りの言葉はまさにこの時のようなことのためかもしれません。そして、それはまた試みにあった時にその事態から逃げるのではなく、それに向かい合えるように主に祈り続けていくことを私たちは求められていると言えるかもしれません。