主日礼拝
            2020年5月31日 

黙 祷             
讃 美
詩編交唱 詩編131編
祈 祷   
聖 書  使徒言行録10章9~16、44~48節      
宣 教  『扉は今、開かれた』
讃 美
献 金   
主の祈り  (裏面)
黙 祷

*可能ならば、いつもの10時30分から、礼拝を捧げましょう。
*讃美はそれぞれに選んでくださって結構です。
*献金は日曜日ごとに分けて袋に入れ、日時、金額と項目(礼拝、月約、感謝、建築等)、氏名を記入し、次に教会に来られる時にお持ちください。

お知らせ
*本日午後2時より、役員会を開催いたします。

*総会資料への賛否の締め切りは本日です。
用紙を教会宛にファックスくださるか、
明日郵送にてお送りください。

*礼拝の動画がホームページ上にアップされました。詳しくは先週の機関誌二号をご覧ください。

*全国に出されていた緊急事態宣言の解除、及び諸活動の制限緩和に伴い、6月7日の主日礼拝より、教会の諸活動を再開することといたします。
  
*何かあれば、いつでも牧師の携帯(090-8289-4940)までお電話ください。 



賛美1(主はいのちを与えませり)


メッセージ(動画)


賛美2(力と光と恵みの神)



メッセージ(テキスト)


皆さん、おはようございます。日本全国で緊急事態宣言が解除されました。しかし、これは残念ながら「もはや脅威は過ぎ去り安全になった」ということではありません。福島原発のことを思い出しました。当時も首相は早々と安全宣言を出しましたが、しかし今に至るまで問題は全く片付いてなどおらず、先の見えない戦いを強いられている人々があまたおられることは皆さんもご存知のことと思います。息の長い取り組みになります。でも神さまのほうへ顔を上げ、神のくださる命の糧でこの身を満たし、それぞれに託されている務めを果たしてまいりましよう。

さて、本日の物語に入る前に少しこれまでのことを振り返ってみましょう。神さまは全能の力をお持ちなのに、それを使って一瞬の内に事態を変化させるという手法を用いられませんでした。例えばそう、空にご自身の映像を映し出し、あらゆる言語で人々に呼びかけ「皆のもの恐れるには及ばない。この私が世界とあなたたちを造り命を与えた神であり、この私を信じあがめなさい」とまあ、そんな感じで人間に語り掛けるという手法です。しかし、実際はそんな大雑把な方法ではなく、実に時間のかかる面倒な手順を踏まれました。神さまはまずイスラエルの民という弱く小さな民を選び(申命記7:7)292ページ、その民族の神となることから始められました。その民と生きることを通してその民と触れ合った国々にご自身の存在を表していかれたのです。しかし、その際にも異教徒に改宗を迫るということはなさいませんでした。けれども、神さまが最も頭を痛められたのは、当の神ご自身が選ばれたイスラエルの民のことでした。この民は強情で、ことごとく神さまに逆らったのです。(ホセア4:16 1407ページ)そのために神はイスラエルを他国民の手に渡さざるを得なくなってしまいました。普通だったらこれでこんな民族は滅びてしまうところですが、イスラエルの民は違いました。どこが違ったかというと、絶望と苦悩と悲しみの中で、この民は神に立ち帰り、神に叫び、神の憐みを求めたのです。(詩編107:6 948ページ)その叫びに対して神はご自身の怒りを収められ、イスラエルを捨てることなく、なお彼らの神であろうとされたのです。そして、神はご自身と人との和解のために、ご自身の一人子をこの民のもとへ遣わされました。一人子によってこの民の罪をゆるすためでした。しかし、結果はご存知の通りで、この民は神の一人子を拒絶したのです。普通だったら怒って当然ですよね。「私(神)の子だぞ、しかもこの子がどんな悪いことをしたというのだ。お前たちは自分のことしか考えておらず、信仰心のかけらもない」と怒鳴ってちゃぶ台をひっくり返してもおかしくないと思いませんか。しかし、この一人子による執り成し(父よ彼らをお許しください。彼らは何をしているか分からないのです。ルカ21:34 158ページ)によって、父なる神は人間に対し、こんな人間たちをあきらめ、手を切るのではなく、罪をゆるして、なお共に歩もうとされる神だということが明らかになったのです。さらに、それで終わりではありませんでした。弟子たちもそれはイスラエルの民にだけ当てはまる、イスラエルの民と神との間のことだと思っていたのです。しかし、今日の出来事によって、福音はイスラエルという枠を超えていくこととなりました。つまり、神は世界中の人々にも救いをもたらす神、すべての人々の神であるということが明らかになったのです。今でこそ世界中に福音の種はまかれていますが、福音がユダヤという領分を出るまでいくつものハードルが設けられ、それを超えて今福音は私たちの手に届けられているのです。

どうです、壮大な話でしよう。しかし、この真実はどんな歴史書にも記されてはいませんし、一つ一つはどこにでもいるごく普通の人々を通して生起していったのです。ペトロは、湖では沈みかけ(マタイ14:30)、師をいさめては逆に叱責され(マタイ16:22)、3度もお師匠様を否認しました(マタイ26:69ff)。その意味で、意気込みは買うけれど、実力の伴わない、ただのアホと言われても仕方のない人でした。けれどもそんな思い込みの激しく、一途な、その点では典型的な一人のイスラエル人の殻が砕かれていくことを通して、イエスさまの福音はイスラエルを出て世界へと解き放たれていったのです。
この話の中にあらゆる生き物が入った四隅がつるされた大きな布という描写が出てきます。ペテロは夢で何度もそれを見せられるわけですが、神はその中の生き物を食べなさいと彼におっしゃいました。しかし、その中にはユダヤの民に対して神が食べてはいけないと律法で定められた生き物も入っていました。皆さんレビ記11章を開けてください。旧約聖書の177ページです。そこにあるように陸上の動物では、ラクダ、岩狸、野兎、イノシシなどは汚れたものですから食べてはいけないとされていました。しかし、布の中にはそのような汚れた生き物も多数入っていたわけです。私は、神は自分で定めた律法を自分で否定しておられるのかと疑問に思いました。ペテロは何度同じ場面を見せられても食べるのを拒否したのですが、それは当然です。聖書にそう書いてあり、生まれてこの方、彼はその聖書に決められている事に従って生きてきたのですから。どんなに夢の中の声がそうしろと言っても直ぐには「はい」とは言えませんでした。最後に彼は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたはいってはならない。」という声を聞きますが、それでも彼は納得できなかったのです。彼が思案に暮れている所へ、100人隊長の使いが到着します。そしてペトロは彼についてカイサリアに行き、そこで夢の答えを知るのです。そこにいた外国人を見た時、自分の中に神の民とそうでない者との垣根を神が取り払われようとしたことに気づいたのです。

新約聖書の中で私は、ペテロほど失敗と挫折、落ち込みの体験を見せてくれる人を知りません。先ほども触れましたが、そのどれもが人に話すのが恥ずかしいものばかりです。でも、その度に新しい認識を得、新たな自分になって立ち上がっていったのも彼、ペトロなんです。でも、「俺もこれで少しは成長したかな」と思った瞬間また打ち砕かれるって、とてもきつかっただろうと思います。そんな彼にとってもこの経験は最も大きな変化の時だったのではないでしょうか。これまでは新たな神さま像を獲得していく時でした。神と私の問題だったのです。しかし、ここにユダヤ人と非ユダヤ人との関係は何かという段階に到達したのです。彼の中の、というか私たちを含めた人間の中の最後の殻を破るのに、神はどれほど時と手間をかけられたでしょうか。神のみ心とご計画は測り知れないと申しますが、こんな形で人の中の問題を示し、そしてそれに気づかせられるなんて、すごいという範疇を超えています。彼は、集まっていた多くのユダヤ人ではない人々を見て、夢の意味を悟ったのです。そして彼らの上に聖霊が降りました。神がすべての人の神であるということが明らかになった瞬間でした。

一体福音がユダヤ人という垣根を超えていくまでにどれほどの時間がかかったでしょう。アブラハムからイエスまでおよそ1500年の時が経過していたと考えられています。福音がヨーロッパを出てアジアに到達するまでにさらに1500年、日本で布教の自由が認められるまでに400年かかっています。日本人の殻は柔らかそうでなかなかに硬いです。でも、神は今も私たちを用いて一人、また一人と、人の心の扉をたたき続けておられるのです。プライドや誇りや見栄で幾重にも塗り固められた殻に閉じこもり、自分の小ささに怯えながらその殻の中に閉じこもって、そしてそれはやがてその人自身も腐らせてしまうものなのに、それでもそこから出ようとせず、かたい殻で身を守っているつもりになっている私たちに、そこから出て、こちらへおいでと呼びかけておられるのです。
神は私たちの予想もしなかった所へ向かおうとされます。そんなところに福音の育つ余地なんてないと思われる場所へ、種を飛ばそうと神はすでに動き始めておられるのかもしれません。そのために、御言葉を通して私たちの中の見えない、というか見ようとしない自分自身の中の不要な殻に気づき、それを主にゆだねていく祈りから始めていきたいと思うのです。お祈りをいたします。



主日礼拝
            2020年5月24日 

黙 祷             
讃 美
詩編交唱 詩編126編
祈 祷   
聖 書  使徒言行録8章1節後半~8節      
宣 教  『今日の迫害を超えて』
讃 美
献 金   
主の祈り  (裏面)
黙 祷

*可能ならば、いつもの10時30分から、礼拝を捧げましょう。
*讃美はそれぞれのお好きな讃美歌で結構です。
*献金は日曜日ごとに分けて袋に入れ、日時、金額と項目(礼拝、月約、感謝、建築等)、氏名を記入し、次に教会に来られる時にお持ちください。

お誕生日
 27日 友光みのり姉 坂田信彦兄
召天日 
 24日 故木戸正力兄

お知らせ
*総会資料への賛否の用紙を教会宛にファックスか郵送にてお送りください。

*坂田光子姉のお父様高桑正義兄が、20日(水)に肺炎のため召天されました。96歳のご生涯でした。光子姉とご遺族の為にお祈りください。

*礼拝の動画がホームページ上にアップされました。詳しくは先週の機関誌二号をご覧ください。

*現在コロナウィルスに感染されている方々、また、治療に当たられている医療従事者の方々とそのご家族のためにも。そして、この状況で、経済的な苦境に立たされている人々のために。また、どこにももって行きようのない不安と怒りを覚えてもがいている方々のために。そして政治をつかさどる方々のために。

*大阪府下に出されていた緊急事態宣言は解除されましたが、諸活動の休止は5月31日まで継続します。
  
*何かあれば、いつでも牧師の携帯(090-8289-4940)までお電話ください。 



賛美1(この世のつとめ いとせわしく)


メッセージ(動画)


賛美2(昔主イェスの播きたまいし)



メッセージ(テキスト)


皆さん、おはようございます。やっと緊急事態宣言が解除され、ホッと一息という感じですが、本番はむしろこれからですね。これからの2~3年、私たちはただ生きるというのではなく、どのように、どこへ向かって生きるが問われます。息の長い取り組みになりますが、まさに望むところ、2000年の時を超えて培ってきた教会の知恵を私たちがそれぞれの人生に反映させ生きることで、今も生きておられる神をこの世に示してまいりましょう。
さて、本日の物語ですが、ユダヤの権力の中枢にいた人々、またユダヤの民衆の大半は、イエスの処刑で、イエスを中心に集まっていた群れは雲散霧消すると思っていたわけです。災いの元凶であり、中心人物と思われていたイエスはもういない。町もすっかり元通り、すぐに沈静化していくと、思っていたわけですが、どっこい、イエスの教えは弟子たちの中に確実に、しかもより強力に受け継がれている事が、ステパノの言動で誰の目にも明らかになりました。その衝撃はすさまじく、ユダヤ人たちの危機感は沸騰し、まだイエスをキリストと信じる者たちが生き残っているいる事をしって、彼らをあぶりだして、捕まえ、根絶やしにしようという動きが急速に起こったのです。いわゆるユダヤ人によるキリストを信じるユダヤ人への大迫害です。でも一言で迫害と言っても、内実はどのようなものだったのかはっきりと認識している人はあまりいないのではないでしようか。当時それは、クリスチャンであるということが明らかになっただけで、逮捕され、投獄され、拷問、そして命の危険を伴うものでした。

エルサレムの人々の中に「なぜだ?」もう終わったんじゃなかったのか。どうしてユダヤの人々の間に、まだイエスを信じる奴らがいるんだという疑問が起こったでしょう。そして殺されることがわかっても、それでもイエスを信じることをやめない者たちの存在は、反対側にいる者にとっては理解できない恐ろしい存在に映っただろうと思います。ユダヤの宗教者や政治家たちは、ただ押さえつけるだけではかえって逆効果だということを自分たちの経験から知り抜いていましたから、なんとか彼らをイエスという病原菌から引き離そうとしたと思われます。捕まえたクリスチャンに対して「敵をゆるし、迫害する者のために祈れなんて、聖書(私たちの時代で言えば旧約聖書)のどこにも載っていない。そんなことを言う神は嘘っぱちだ。」「騙されてはいけない。お前の信じているイエスは神に呪われた者なんだ。だから木(十字架)に架けられたんだ。」「このまま行ったらお前の兄弟や、両親、親戚一同大変な目に遭うぞ。」後にろーのによる迫害も起こりますが、それはもっと極端で残虐でした。「イエスだけが真の神だなんて教えは棄てろ、捨てなければ拷問だぞ。獣に食わせるぞ。」そうやって説得と、脅迫によって棄教させて、信者の広がりを食い止めようとしたと思われます。

それは形を変え、よりソフトにはなっていますが、この現代でも時々目にすることです。「家の宗教があるじゃないか。それに俺たちがこんなに反対してるのに、それでもお前はあっちへ行くって言うのか。」また「こんなもののために社会的な地位と約束された収入を捨ててしまうのか。」あるいは「宗教なんか信じていたら、変わり者扱いされて結婚できなくなるぞ。」さらに「なにもキリスト教に入らなくても、お前が打ち込める趣味でも人助けでも他にいっぱいあるだろう。」もうちょっとソフトに「そんなに難しく考えないで、ほどほどに、うまく生きていく方が生きやすいじゃないか。」応えることの難しい問をぶつけられたりもします。たとえば「愛が大切なんて、今どき本気で信じてる奴がいるか。だったらなぜ戦争や離婚がこんなに多いんだ。」etc、エトセトラ・・・。どうです、皆さんだつたらどうされますか。。拷問とか、死刑まではないにしても、「周りを見て、みんなのしているようにしていれば間違いないわ。」「日本ではね、和、それが何より大事なの。」そういうふうに育てられる日本人にとっては、それでもなお信じることを選ぶというのはかなりの負担になることです。

しかし、誕生したての教会が潜り抜けねばならなかった迫害は、即自分の命に直結するものでした。周りから「棄てろ」と迫られたクリスチャンたちは、「棄てられません。捨てたら私自身が、本当の喜びから、希望から打ち棄てられてしまいます。」と、信仰を捨てない代わりに家族を、この世の生活を棄てる事へと追い込まれていったのです。彼らはどうやってこの困難を乗り越えていったのでしよう。そんな中で、彼らが頼ることができたのはイエスのみ言葉以外考えられません。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:39)「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ 10:28)「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ 16:33)愛する者から引き離され、拷問の苦痛、死の恐怖の中で、彼らを支えたのは十字架にかかるまでに人を愛し続けられた神の子のことば以外にありえません。

さて、逮捕される前にこのエルサレムを離れることを決断した人々の胸中にはどのような思いがあったと思われるでしょうか。この世は彼らクリスチャンに「イエスへの信仰を棄てろ」と迫ります。追いつめられる彼らの内には、このようなイエスからの問いかけが響いていたのではないでしょうか。「やっぱり君も私を捨てるのか」と。これは恨みとか嫉妬とから発せられた言葉ではありません。その方は神であるのに一切を捨てて人となったお方でした。私たちのために一切を捨ててご自身を十字架に捧げたお方が、この世にも手塩にかけた弟子たちにも見捨てられた方が、そしてついに十字架上で「神よ、どうして私をお見捨てになるのですか」と叫んだ方が、信仰を捨てよと追い詰められているキリスト者一人一人に、今も愛の眼差しを向け続け、私に従いなさいと招き続けておられるのです。もちろんその際に報酬とか、約束とかがイエスさまから示されたわけではありません。
迫害に遭ったクリスチャンたちはそのような中にあって「わかりました、イエスさま、あなただけは捨てません。」そう心から決心し、それによって自分の身に起きてくることを受け入れていったのです。そこまで行くには損得勘定や周りの人間関係などの間をみんな行きつ戻りつして悩み抜いたと思います。私も命をとられるというようなことはありませんでしたが、今まで数回同じような経験をしました。しかし、一旦イエスに従うと決心すると、不思議といつも心に付きまとっていた息苦しさは止み、生まれて初めて、胸にたくさんの空気がたっぷりと流れ込んでくる、そういう体験も味わいました。

サマリアという言葉が出てきますが、この言葉で皆さんは二つの場面を思い出されるのではないでしょうか。一つは、ルカ15章の善きサマリア人のたとえ。もう一つはヨハネ4章のサマリアの女の出来事です。かつてイエスと一緒にサマリアを通らねばならなかったとき、弟子たちは仇敵の地を通ることに明らかに恐れと偏見を持っていました。現に弟子たちはイエスがサマリア人の女と話をしておられたのを目撃して驚いたと記されています。(ヨハネ4:27)それはサマリア人と話すということが正当なユダヤ人にはタブーだったからです。しかし、今フィリポはそのサマリアの地で、イエスこそすべての民の救い主であることを自ら宣べ伝えているのです。彼自身がこの変容に驚いたでしょうが、しかし、心の中の垣根が取り払われて、すがすがしい思いで語っていたのではないかと思います。


また、我々は過去のいきさつにどうしてもとらわれます。しかし、善きサマリア人の例えは、私たちに真の神の民とはどういうものであるかを示してくれています。過去の経緯や自分の目的を優先していたなら、サマリア人もけが人の前を通り過ぎていったでしょう。しかし、イエスは苦しむ者の前を決して見ないようにして通過することはなさらなかった。それをなにより実感していたのが弟子たちでした。裏切り、置き去りにした自分たちの所業を、彼らのその弱さをイエスは怒り、さげすみ、報復でもって報いたのではなく、平安と、赦しと、ご自身の手足とするというとてつもない信任をもって遇されたのですから。
最後に御言葉をご一緒に読んで終わりたいと思います。ルカによる福音書12章32節、新約聖書の132ページ、下の段でしようか。おあけになれましたか。ではご一緒に、
『小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。』

お祈りいたします。



主日礼拝
            2020年5月17日 

黙 祷             
讃 美
詩編交唱 詩編125編
祈 祷   
聖 書  使徒言行録3章1~10節      
宣 教  『信仰とはこれすなわち感謝なり』
讃 美
献 金   
主の祈り  (裏面)
黙 祷

*可能ならば、いつもの10時30分から、礼拝を捧げましょう。
*讃美はそれぞれのお好きな讃美歌で結構です。
*献金は日曜日ごとに分けて袋に入れ、日時、金額と項目(礼拝、月約、感謝、建築等)、氏名を記入し、次に教会に来られる時にお持ちください。

お誕生日
 27日 友光みのり姉 坂田信彦兄
召天日 
 24日 故木戸正力兄

お知らせ
*先週お配りしました総会資料をご熟読の上、期限までに同封の賛否の用紙を教会宛にファックスか郵送にてお送りください。

*出立姉のご主人は11日(月)に退院されました。皆さまのお祈り感謝します。

*礼拝の動画がホームページ上にアップされました。詳しくは機関誌をご覧ください。

*現在コロナウィルスに感染されている方々、また、治療に当たられている医療従事者の方々とそのご家族のためにも。そして、この状況で、経済的な苦境に立たされている人々のために。また、どこにももって行きようのない不安と怒りを覚えてもがいている方々のために。そして政治をつかさどる方々のために。

*緊急事態宣言期間延長に伴い、諸活動の休止を5月31日まで延期いたします。途中で解除される可能性もありますが、今しばらく自粛を続け、自身と家族の安全を守りましょう。


*何かあれば、いつでも牧師の携帯(090-8289-4940)までお電話ください。



賛美1(善き力にわれ囲まれ)


メッセージ(動画)


賛美2(罪ゆるされしこの身をば)



メッセージ(テキスト)


さて、何があったか、皆さんはご存知のことと思いますが、ついこの間まで、本当にひと月半前まで、家の中に閉じこもって外部との接触を避けていた弟子たちが、何と神殿へとやってきたのでした。そこには自分たちの大切な師匠を十字架へと追いやった者たちがうじゃうじゃいるところでした。というと、何か悪の巣窟に乗り込むヒーローの話のようですが、もちろん弟子たちにそんな気負いはなかったと思います。

これまでの出来事を通して弟子たちもそこがどんな処かをはっきりと見定めていました。神殿、そこは自分たちは正しい、自分たちこそ神の民であり、自分たちは他の民族とは比較にならない優れた民族だという思いにみちた、誇り高い人々のいるところでした。つい一月ほど前、先生と共にここを歩き、その後起こっていった恐ろしい出来事の数々が走馬灯のように彼らの頭の中を駆け巡ったと思われます。緊張しつつ神殿への階段をペテロとヨハネという二人の弟子たちが登っている途中のことでした。

彼らが美しの門へ差し掛かった時、門の傍らで物乞いをしている一人の人に目が止まりました。私がこの物乞いだったら、決して通り過ぎる人に目を合わせないようにして、その人が自分の前を通り過ぎる際に「哀れな病人に神のお恵みを・・・」などとつぶやいていたのではないかと思います。下手に目を合わせて言いがかりをつけられてはかなわないとびくびくしながら、しかし、心の中ではそんな自分の卑屈さに吐き気を覚えつつ、そして自分が手にできなかった人生を生きている者たちに対する嫉妬と敵意の入り混じった感情に身を焦がしつつ、さらに自分にこんな重荷を背負わせた神を呪いつつ、けれども、決して自分がそんな思いをいだいている事をまわりに悟られないように気を使いながら・・・。
挫折や大きな失望を経験したことのある方なら、この物乞いの気持ちの幾分かを共感できるのではないでしょうか。それはペテロとヨハネにとっても同じでした。自分の小ささ、惨めさ、愚かさをこれでもかと味わったのち、人の世界から出ていくこともできず、さりとて周りの人とそれまでと同じように生きていくこともできず、自分を責め、周りを呪いつつ、そしてそれを決して悟られないように押し隠して生きていくしかないと思っていた彼らでしたが、復活されたイエスによって、それら全部が全くの一人よがりであったことを思い知らされたのでした。そして復活のイエスは彼らをヒーローにこそしませんでしたが、本当の人間にしてくれました。

本当の人間、私はこの物語の指し示すのは本当の人間とは何かということだと思います。二人はじっとこの物乞いを見つめました。数秒か、長くても一分はなかったと思います。でもその間彼らには、この物乞いの中にいるイエスさまが見えたのではないかと思います。彼らは「わたしたちを見なさい」と彼に声を掛けました。決して交わることのない世界に住んでいると思い込んでいたこの物乞いに、彼らの言葉は「いいえ、あなたの前にはドアがあります。あなたはそのドアを開けることができるんです。」そう誘っているように聞こえたのではないでしょうか。それからしばらく今度は目を上げて物乞いはペテロとヨハネを見つめました。ようやく視線が交わりました。でもこの物乞いの心にはまだ疑いと恐れが八割くらい渦巻いていたと思います。その時ペテロは彼を人が真に生きる世界へと引っ張り入れたのです。両親や周りは彼が立てるくらいの年になってから「さあ立て、起つんだ」と幾度となく要求し、何とか立たせようとしただろうとおもいます。その度に彼は要求にこたえられないことに引け目を感じ、できない自分に怒り失望し、時には不可能なことを要求する周りの人々を憎んだかもしれません。きっと自分でも何とか立とうと試みただろうと思います。しかし、ついにあきらめ、歩けない自分に甘んじることを受け入れ、そうやって自分とも周りとも何とか折り合いをつけて生きてきたのでしょう。しかし、自分がお荷物だという思いは常に彼を押さえつけ、人間としての輝きを彼から奪っていきました。

間違ってはいけないのは、信仰があったからこの人が癒されたというのではないということです。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』とペトロが言い、立ち上がらせようとした時、この物乞いは、『いいえ、無理です。余計なおせっかいは辞めてください。』と拒絶することもできたのです。これ以上惨めになりたくない、期待することでこれまで何度みじめな思いをしてきたか、その度に自分が悪い、自分がだめだからこうなったんだ、自分には生きてる資格なんか無いとそんな思いを幾度となく味わってきたことも想像に難くありません。でも彼はこの時これまでの経験にしがみつこうとしませんでした。それは彼がまさに生まれ変わった、復活した瞬間でした。私たちも同じではないでしょうか。自分に生気も希望も与えないものに、それはかつて自分が愛した人であったり、かつての栄光であったり、それにいつまでもしがみついて、いつまでたっても同じ所をぐるぐると回り続ける。しかもそれを自分の境遇や他者のせいにし、自分にも周りにも言い訳としている。望んでそうなったわけではないにしても、病に、不幸な出来事、また挫折体験の上に安住してしまってはいないか、今日私たちは主から問われているように思います。しかし、そうはいっても、それは自分ひとりではなかなか気づけないものだからこそ、私たちは主に目を上げ、差し出されている手をしっかり握り返さねばならない、そうやってはじめて私たちは自分の姿に、それがどんな惨めなものであろうとそれに正面から相対することができるのではないでしょうか。

そして本当に大切なのはそれからです。ここからが本当に大事なのです。彼は、何度もこの二人に感謝の言葉を表したでしょう。そして、こういうこともできたのではないでしょうか。「家族の所へ戻ります。早くみんなに見せたいのです。」と。しかし、彼はそうしませんでした。彼は二人と共に境内に入って行きました。そこは彼が入るのを赦されなかった場所でした。なぜなら生まれつきの病人は神から呪われた者でしたから、そこから上に彼の居場所はなかったのです。しかし、今彼は入って賛美しています。賛美それは感謝です。極端に聞こえるかもしれませんが、感謝している人が救われている人なのです。信じている人なのです。イエスを知っている人が必ずしも救われている人ではありません。信じている人ではありません。

 時々、イエスを知らない、しかし、深く感謝して生きている人に出会うことがあります。そういう人に出会って私は深く恥じ入らされたことが幾度もありました。さて、物乞いの話に戻りますが、皆さんの中には「だってこの人は自分の病が癒されたのだから感謝するのは当たり前だろう」とおっしゃるかもしれません。そうでしょうか。ではなぜ「のど元過ぎれば熱さ忘るる」ということわざがあるのでしよう。癒された瞬間から、今の俺は以前の俺ではない。もう誰にもお荷物とか厄介者とか言わせない。俺はそんなところから抜け出て、別人となったんだ。感謝がない人生というのは、自分の生きがいや喜びを、他と比べることで得ていく世界です。それは自分の欠けをいつまでも自分の力で埋めていく世界です。ですから、まだ、まだ、まだ足りないというところから決して抜けられないのです。そしていつ失うか分からないという恐れからも決して逃れられない世界です。

 これは弟子たちも以前味わった経験でした。何のことかというと、イエスが生きておられたころ、彼らは、二人ずつペアになって宣教の旅に出させられたことがありました。その時、彼らはこの場面と似た経験をしていました。ルカによる福音書の9章を開けてください。新約聖書の121ページでしょうか。二人にとって病人を癒したのはこれが初めての体験ではなかったのです。でも、彼らは、自分にもこんなことができるということを驚くとともに喜んだでしょうが、神はこんな私をも用いてくださり、こんな小さな私をとおして生きて働かれるのだという事を感謝するところまでいたらなかったのではないかと思います。彼らが関わった人々からはたくさん感謝されただろうと思います。しかし、それは自分がしたことではなく、主がこの私を通して働かれたということに、じぶんもまた感謝しなければならない存在だということに思いは至らなかったのです。だから、このかつて物乞いだったこの人がしたことは、この二人、そして主の弟子たるものすべてにとって模範とされていったのだと思います。

 皆さん、もしあなたがイエスを知っていると自負しているとするならば、日々の生活の中に主への感謝があるのかどうか、正直に省みなければならないと思います。『言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。』(マタイによる福音書 5章20節)と、イエスがおっしゃった意味は、どれほど功績をあげ、人に認められようと、感謝のない信仰生活が、砂の上にせっせと建物を建てるようなものだということを弟子たちにはっきりと示すためであったのではないかと思うのです。



主日礼拝
            2020年5月10日 

黙 祷             
讃 美
詩編交唱 詩編124編
祈 祷   
聖 書  使徒言行録2章1~13節      
宣 教  『種子は放たれた』
讃 美
献 金   
主の祈り
黙 祷

*可能ならば、いつもの10時30分から、礼拝を捧げましょう。
*讃美はそれぞれのお好きな讃美歌で結構です。
*献金は日曜日ごとに分けて袋に入れ、日時、金額と項目(礼拝、月約、感謝、建築等)、氏名を記入し、次に教会に来られる時にお持ちください。

お知らせ
*教会員の方には総会資料を同封しております。ご熟読の上、期限までに同封の賛否の用紙を教会宛にファックスか郵送にてお送りください。

*胃がんの手術を受けられた出立姉のご主人は次週半ばごろ退院の見込みとのことです。引き続きお祈りください。

*現在コロナウィルスに感染されている方々、また、治療に当たられている医療従事者の方々のために祈りましよう。そして、そのご家族のためにも。そして、この状況で、経済的な苦境に立たされている人々のために。また、どこにももって行きようのない不安と怒りを覚えてもがいている方々のために。そして政治をつかさどる方々のために。

*緊急事態宣言期間延長に伴い、諸活動の休止を5月31日まで延期いたします。途中で解除される可能性もありますが、今しばらく自粛を続け、自身と家族の安全を守りましょう。

*何かあれば、いつでも牧師の携帯(090-8289-4940)までお電話ください。



賛美1(み言葉もて霊の火を)


メッセージ(動画)


賛美2(ほめたたえよ造り主を)



メッセージ(テキスト)


教会生活をするにあたって、頭を悩ませるものの一つが「聖霊」という言葉です。しばしば感じるのが、《精霊》との混同です。皆さん両者の違いわかりますか。良く言われますのが、『聖霊』は神の霊=イエス・キリストの霊であり、《精霊》は植物の精霊という具合で、そのものの化身であったり本質を象徴するものと考えられます。聖書によれば神が私たちを造られ、その時『息』を吹きいれられたと書かれています。(創世記2:7)その息という言葉は、『霊』、とも『風』とも訳される言葉なのです。私たちは神からそれぞれの霊を与えられていますが、聖書はそれだけでは私たちは本当の父を知らずに過ごしてしまうというのです。私たちはイエスを主と告白する聖霊を受け入れることによって自分が何者=父なる神の子であって、自分が神のもとから来て、神によって保たれて地上で生活し、また神のもとに帰るべく備えている者なのだということがわかるのです。(ロマ11:36)

今日の聖書箇所には、聖霊が降った時、いろんな言葉がそこにいた人々の口から発せられたという驚くべき、そしてちょっと不気味でひいてしまうような現象が語られています。実はこれはイエスキリストによってもたらされた罪の赦しと神との和解という出来事が、ユダヤ民族という枠を超えて世界中に広まっていくということの象徴として語られていると理解することができます。そして実際ある時期から、イエスを十字架にかけた者たちを恐れて家に閉じこもっていた信徒たちが、その十字架にかけられて、この世的には最も惨めで無に等しいと思われた者こそが、実は神の一人子であって、神ご自身が罪人である人間の手によって処刑されることで、私たち人間の罪の贖いとなられ、それによって私たちの罪がゆるされたのだという何とも壮大でにわかには信じ固い話を、周りに伝え始めたのです。

そしてもう一つ注目すべきことは、彼らが目を向けた人々でした。私もかつてはそうでした、いや恥ずかしい話今も時々そうなのですが、私たちはどこに目を向けているかを正直に省みてみると、たいてい自分の上にいる人々を見て、憧れたり恐れたりしていると思うのですがいかがでしょうか。しかし、この時からクリスチャンたちは周りにいる貧しい人々や病気の人、また差別されたりして苦しんでいる人々に目を向け、その人たちと歩もうとしたのです。そう、聖霊というものの本質は、ほっておくと自分が見たいものしか見ようとしない私たちのまなざしを、真に見なければならないものへ、神がおられる方向へと向けさせてくれるものということができると思います。

私はどうして聖霊が必要なのだろうとずっと思ってきました。だって弟子たちはイエスがよみがえられたということを自分の目で、耳で、そしてきっと触って確かめることができたのです。それだけだって宣教を始める大きなきっかけまた動機になると思うのですが、しかし、よくよく考えてみればイエスその人を全く何も知らない人に伝えていくのです。自分と相手をつないでくれて、なおかつ神とその人を結び合わせてくれる存在がなければ、宣教は不可能でしょう。いくら話術に長け、人格的に立派で、地位や能力があったとしても、人はそれだけでは見えない何かを信じて従っていくことなどありえません。つまり聖霊の助けなくして伝道も証もありえないのです。

そう考えるとイエスさまが、止まって待っていなさい(使徒言行録1:4)と言われた意味が分かります。タンポポが綿毛を飛ばすのと同じように、福音の種子を放つその時をイエスさまは待っておられたのです。そしてそれが人の持つ財産や能力や地位によらないで進められていくことを、神は望まれたのです。ですから「でも聖霊を受けたら心にやる気と情熱が湧くのでしよう。でも私はそんな体験してないし???」といぶかしがる人がたまにいらっしゃいます。しかし、今あなたが、聖書へ、祈りへ、教会へ、そして見えにくくされている人々へと目を向けておられるなら、すでに神の霊=聖霊はあなたと共にあるのです。私たちはこの世が歯牙にもかけない様な人々に仕えていくように求められているのですから、当然私たちも世の人々から見えにくくなっていきます。しかし、神だけはそのすべてをしっかり見ておられますし、そして神の国はそうやって世の人々の目から隠されて成長していくのです。それでも時々「もっと華々しくて、人目を引く方法もあったでしょうに、なんでこんな地味な方法を選ばれたんですか?」と神さまに文句を言いたくなりますが、力や欲望や脅しに訴えても全くうまく行かなかった神と人との千年以上にわたる歴史から、神ご自身が学ばれたからだと今は納得しています。

今、神はもう一度、海を割ったり、火の柱や雲の柱で私たちに自分の存在を示そうとはなさいません。そうではなく神は私たちの平々凡々たる日常の中に生きて働きたいと願っておられるのです。なぜならそこが私たちの出会いの場だからです。自分が一番身近な家族の一人一人と本当に出会っているのか・・・?分かっているつもりが一番恐ろく、また危ういのです。霊の目でしか垣間見れない世界があるのです。人の、奥深く、入り組んでいて、分かりにくいけれども同時に非常に豊かで、福音の種がまかれる時を待ってる土地、また実った穂を刈り入れられるのを待っている土地を、私たちが近くにいる人の内に見出していくことを可能にするものこそ聖霊の働きと私は考えます。


主日礼拝
            2020年5月3日 

黙 祷             
讃 美
詩編交唱 詩編121編
祈 祷   
聖 書  使徒言行録1章3~11節      
宣 教  『不在による臨在』
讃 美
献 金   
主の祈り
黙 祷


*讃美はそれぞれのお好きな讃美歌で結構です。
*献金は日曜日ごとに分けて袋に入れ、日時、金額と項目(礼拝、月約、感謝、建築等)、氏名を記入し、次に教会に来られる時にお持ちください。

お知らせ
*可能ならば、いつもの10時30分から、礼拝を捧げましょう。


*両膝の手術を受けられた坂本歌子姉妹は4月30日

(木)に退院されました。皆さまのお祈り感謝します。


*胃がんの手術を受けられた出立姉のご主人のために、引き続きお祈りください。

 

*現在コロナウィルスに感染されている方々、また、治療に当たられている医療従事者の方々のために祈りましよう。そして、そのご家族のためにも。そして、この状況で、経済的な苦境に立たされている人々のために。また、どこにももって行きようのない不安と怒りを覚えてもがいている方々のために。そして政治をつかさどる方々のために。

*緊急事態宣言期間延長が確実な状況を鑑み、次週の礼拝及び諸活動を休止いたします。今後の活動・予定につきまして本日2時より、役員会を開催いたしますのでお祈りください。


*何かあれば、いつでも牧師の携帯(090-8289-4940)までお電話ください。



メッセージ(テキスト)


トマスのために顕現された後、ガリラヤで弟子たちと語り、再びエルサレムで度々顕現され、足掛け40日にわたって弟子たちに現れてはまた消えられた後、イエスは天へと昇っていかれました。その時、彼らはぽかんと口を開けたまま、いつまでもイエスが昇っていかれた空を見上げていたと記されています。自分たちの力不足、弱さ、小ささを知り抜いていた弟子たちにとって、イエスがおられなくなった、その声を聴くことも、イエスを中心に集まって笑ったり泣いたり叱られたりすることが永久に失われたことからくる空白は何をもってしても埋めようがないものだったと想像されます。この聖書箇所を黙想する間、自分にもあの弟子たちと同じように空っぽの青空を一心に見つめていると感じたことがあったなことを思い出しました。

 

たぶん彼らを落ち着かせるために使わされたと思われる天使たちは、わかりきった質問をしました。「なぜ天を見上げて立っているのか。」空には何もなく、もはやイエスの姿は影も形もない。それでも彼らは諦めることもできず、これからどうしたらよいかも分からず、立ったままイエスの去っていかれた方向を見つめていたのです。


キリスト者になって以来私はイエスのしるし、イエスの臨在の何らかの目に見える手掛かりを探し続けてきました。しかし、イエスが命を懸けて託した弟子たちが立てあげてきた教会で目を凝らしてみても、そこには目を覆いたくなる惨状が広がっていることをしばしば実感してきました。そんな時、私は古くて新しい問、「イエスはなぜ去らねばならなかったのか」という疑問に舞い戻るのです。この時から約300年の間、キリスト教は正当な宗教とは認められず、ユダヤ社会からも、ローマからもにらまれ、迫害され続けました。いったい何人の血が流されたことでしょう。イエスさまは、ご自身がこの世に放ったことが、彼自身ばかりか、手塩にかけた弟子たち、そして自分を信じたために、悲惨な運命を引き受けなければならなくなった数えられないクリスチャンたちの姿を、どんな思いでご覧になっていたのかと思います。私は訊きたくなります「『わたしが去っていくことは、あなた方のためになる。』(ヨハネ16:17)そうあなたはおっしゃった。本当ですか、主よ。本当にそれでよかったのですか?」と。イエスは、ご自分の仕事を他の人々のからだによって続行していくために、自分は去っていくのだと言われました。しかし、弟子たちには、イエスが生きておられた間も、天に帰られた後も、そのことを理解できなかったことがこの時の弟子たちの姿に暗示されています。現代でも父なる神が子なる神に与えた使命を、子なる神は今や弟子たちに託しているという、その激烈な変化を理解することは容易ではありません。私にはどう贔屓目に見ても、教会がそれに成功しているとは言えません。


しかし、教会はこのことからこの上なく大切なメッセージを受け取ってきました。それは、私たちはこの弟子たちのように今でもイエスに力のメシアを期待しているということです。力に対してどうしようもないあこがれをいだき続けているのです。イエスがいない、それは私たちもイエスのように自分の力で何とかしようという思いとサヨナラすることが大切だということです。私が医者だったら、お金があったら、有能な政治家やミュージシャンだったら等々、それは私たちが自分ではない何者かになろうとすることであり、イエスが求められた分を超えることなのです。


イエスはこの昇天以来、自分が地上で生きた人生をもう一度生きる、他のからだを探していると言ったら言い過ぎでしょうか。パウロが「私たちは神の神殿である」(Ⅰコリント3:16)と言ったのはまさにこのことを指しているということができるのではないでしょうか。であればこそ、「信じる者が反逆すると聖霊が悲しむ」(エフェソ4:30)し、「罪ある者が悔い改めると、天使たちが喜ぶ」(ルカ15:7)のです。私はこれらのことを信じていますが、それでもどういうわけか忘れてしまってばかりであることを認めざるを得ません。自分の祈りが神には重要であることを忘れてしまうし、自分が隣人たちを永遠の目的地へと助けている事を忘れてしまいます。目に見える現実がすべてを覆う霊的宇宙の存在を信じる私の気持ちをつい圧倒してしまうので、私は今も時々空っぽの空を見つめ、ため息をついてしまうのです。


しかし、神は決して失踪しているわけではありません。イエスは『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:40)と言われました。つまり、見知らぬ者、貧しい者、飢えた者、囚人、病人、差別を受けている者といった、到底ありえないようなものに姿を変えて存在していると言われたのです。ですから、私たちが「神はいない。行ってしまわれたのだから。」と、空ばかり見上げて神の臨在を察知することができないのは、それは間違った場所を探しているからかもしれないのです。私たちは直接神の益となることをして愛を表すことはできないので、神はそれらの人々の益となることをしてほしいと願っておられるのです。この世で小さくされた人々は、クリスチャンの愛を受け取る仕事がまかされているのです。さて皆さん、皆さんの目は今どこを見ておられるのでしょうか?