7月26日主日礼拝


メッセージ(動画)



メッセージ(テキスト)


今日から三回にわたってテサロニケの信徒への手紙にから主のみ旨を受けていきます。今日の聖書箇所の半分を再臨と裁きが占めていますが、皆さんはどのようにお感じになりますか。こんな話をしているとカルト集団だと勘違いされそうだとお感じになる方もいらっしゃるかもしれません。実際あるキリスト教から派生した集団が、終末に対する悲観と恐れから集団自殺したということがありました。かのオウム真理教も終末を自らの手で引き寄せ、世界を変革しようとしたのです。ですから、終末や裁きという言葉自体にアレルギーを持つ人々が大勢いることも事実なのです。しかし、キリスト教はこの再臨、そして終末という教義を今も大切にしていますし、しばしば話題になったり、ことさらに強調されるということこそありませんが、それでも大切なメッセージが含まれているということは間違いないのです。


6節~9節を読みますと、神の審判と刑罰が語られますが、それは私たちを怯えさせ、神の掟に逆らわないように私たちを戒めるためではありません。むしろ私たちの正義とか自分の信念を相対化する方向に働いていると言った方が正鵠を得ています。どういうことかというと、最後の日に、神と視野を共にして自分の一生を眺めると、「本当に大事なこと」は自分の思っていたものとは違うかもしれない、そんな気持ちを今持つことにつながるからです。それは「自分は間違っていない、間違っているのはあいつだ」と決めつけたり、逆に「全部私が悪いんだ」と自分を責めたりすることから私たちを守ってくれます。それでも、審判なんてなくてもいいんじゃないか。神がすべての人を愛し、命をかけて救いを成し遂げてくださったというだけでいいのではないかと思われるかもしれません。しかし、審判のないキリスト教はありえないのです。それは物事には必ず終わりがあるからであり、人の営みがある限り正義を無視できないからです。


私は仏教にそんなに造詣があるわけではありませんが、ある方のお話しが心に残っています。それは浄土教には最後の審判がないということです。浄土教の信じる阿弥陀如来は、修業時代に48の誓願を立て、それが成就するまで仏にならないと誓ったというのです。しかし今、仏になっているのですから、誓願はすべて成就したということになります。その願いの一つが「だれでも念仏する者は極楽浄土に来させる」というものがあって、この願いも成就しているはずだから、誰でも「南無阿弥陀仏」と言いさえすれば、裁きもなければ他の条件もなく、極楽往生間違いなしということになります。これは確かにものすごく寛大です。しかも簡単でいいと思われるかもしれません。でも私は、締めくくりのない、決着のない人生に生きがいを感じられるとは思えないのです。残虐非道なことをしたって、念仏を唱えさえすればOK、死刑になろうと極楽に行けるというのでは、被害を受けた方の無念な思いや正義は全く無視されたということになります。


私たちは神を信じなければ地獄行きだから神を信じるのではありません。主の再臨や裁きや終末を、とっつきにくく分かりにくくてもキリスト教がなおざりにしたり、捨て去ったりしないのは、人間の歴史の中の生に一区切りつけて「私はこのように生きてきた」ということを神の前で自分なりに納得するためなのです。自分にとって理解不能な体験や経験があったとしても、その意味とその時々の自分の選択がどんな意味を持ち周りにどんな影響を与えたのかを知らされる時が必ず来るという確信が、あいまいさの中で生きている私たちの信仰生活に張りを与えてくれるのではないでしょうか。


日々、迫害にさらされ、内側にも様々な葛藤を抱えていたテサロニケ教会の人々、それはあからさまな迫害こそありませんが、今を生きる私たちも同じです。私たちの信仰があいまいになったり、どうでもよくなりそうなとき、私たちの旅路の終わりに神と顔と顔を合わせて、自分の人生を振り返る時を持たされる。その時、私は自分の良心に従ってこのようにいたしました」とそういい切ることができ、「それをどう裁こうと、それはお任せします」と言える信仰をもって今日を歩みたいと思います。


7月19日主日礼拝


メッセージ(動画)



メッセージ(テキスト)*準備中


7月12日主日礼拝


メッセージ(動画)



メッセージ(テキスト)*準備中


7月5日主日礼拝


メッセージ(動画)



メッセージ(テキスト)*準備中